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国家狂乱篇38

  近江銀行は、鐘淵紡績のライバル東洋紡績社長に就任した近江商人・阿部房次郎が取締役を勤めていた。阿部一族は長者の一族で、さらに婚姻関係には、長者番付で大阪府第二位の山口銀行頭取・山口吉郎兵衛(全国三十五位)、島根県第二位の堀藤十郎(鴻池善右衛門~三野村利左衛門一族)、元総理・松方正義らがいた。この近江銀行が破綻、さらに華族銀行である十五銀行が破綻した。

   十五銀行は松方の息子・松方巌が頭取であったが、松方個人の乱脈経営に加えこの恐慌で最終的に倒産となった。
 この、破綻の少し前、さる筋から知らせを受けた多くの大名華族資産家たちが、預金を早めに引き出し助かったと伝えられることから誰かの差し金であったといえよう。このあと松方は爵位返上のうえ私財を投入している。

 昭和二年恐慌は、関東大震災前から日本の不良債権経営の実態を知っていた実業家グループが経済テロ的に起こしたものであるといえよう。
 もちろん大衆はそのような事情は知る由もなく、最終的に被害を被ったのである。台湾銀行休業の前日、若槻内閣は総辞職していた。そして新総理大臣に陸軍参謀本部出身、陸軍大臣経験者で、妻が三井銀行幹部・柳荘太郎婦人の姉である田中義一が就任することになる。ここに三週間のモラトリアム=支払い猶予が行われ事態はようやく収束してゆくが、政党内閣時代の終わりがここに告げられた決定的瞬間でもあった。




tanaka


田中義一元陸軍大臣・元内閣総理大臣



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  田中内閣が発足すると、ダルマ蔵相・高橋是清によって三週間の支払猶予令が出されて銀行が一斉休業に入り、このあいだに取り付け騒ぎが終息した。長州・三井の軍閥内閣なら何をしてもよろしいと、台湾銀行にも日銀からの巨額の非常貸出がおこなわれて、植民地金融は予定通り維持された。したがって台湾銀行が救済されたのは、本来は、田中内閣の力量によるものではない。経済的な論理性もなければ、国家的な筋においても一貫性のない長州出身の軍事人脈が、大衆が苦しむ昭和二年恐慌を食い物にし、金融支配力を軍事支配力に換えて、これが、日本が地獄に転落してゆく決定的な役割をはたした。


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 「持丸長者国家狂乱篇」P314




  

国家狂乱篇37

  昭和二年(一九二七年)若槻内閣大蔵大臣の片岡直温が三月十四日、に突然、「東京渡辺銀行は破綻した」と発言したため、預金者が銀行に殺到して取り付け騒ぎとなり、渡辺銀行とその姉妹銀行あかぢ貯蓄銀行が翌十五日に臨時休業に追い込まれた。
  実は、渡辺銀行はまだ破綻せず、何とか決済にこぎつけていたのだが、この歴史上有名な失言によって、本当の破綻に追い込まれてしまったのである。渡辺銀行をはじめ当時の個人金融は商人の常識である信用貸しによって資本を融資していたから担保などなく、一旦信用収縮が起きれば即倒産である。渡辺銀行、タバコ王村井一族の村井銀行、中井銀行、神田銀行をはじめとして連鎖的に銀行が破綻していった。多くの書はこれらを小さな銀行としており影響が軽微であったかのような印象を受けるかもしれない。が、当時の資産で渡辺一族、村井一族合わせて一億円を超えていたのであるから満鉄の総資産の1割と考えれば相当な金額である。現在の日本最大企業のひとつであるトヨタ自動車の資産の一割と仮に考えれば相当なものである。
  だが、台湾銀行をメインバンクとする日本屈指の商社「鈴木商店」の借入額と比べれば確かに一億円といえども少なく思える。鈴木商店が資金不足に陥ると事態はさらに深刻となる。「鈴木商店」は単なる個人商店ではないことはご存知の方は知っているであろうが一応説明しておく。伝説の事業家 金子直吉によって第一次世界大戦時に大きく賭けに出て成功し、一時スエズ運河を通過する船で日本一と呼ばれた時期もあるほど貿易量を誇った知る人ぞ知る世界的大商社である。しかし歴史教科書からはその名は抹殺されている。
  鈴木商店の決済不能により、ここに非財閥系世界的大商社は姿を消し台湾銀行も休業に追い込まれる。

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  この恐慌は、財閥が待ち望んでいたものであった。鈴木商店をつぶし、中小の勢力を傘下におさめる恰好の機会だったからである。三井財閥の大改革を機に常務取締役に抜擢されて依頼、三井銀行の経営トップとして資金を動かしていた池田成彬(せいひん、とも読む)が、この恐慌を目にして、台湾銀行から短期貸借のコールマネーを全額引き上げたので、台湾銀行は鈴木商店救済どころではなく、自分の経営が危機に陥った。時の台湾銀行頭取は、森広蔵で、鈴木商店が隆盛のピーク時代に神戸商工会議所特別議員をつとめていた人物だから、神戸最大の商人・金子直吉とは昵懇の間柄だった。そうした関係から、関東大震災の欲念には、台湾銀行から鈴木商店に対する融資額が三億円を超え、台湾銀行の全貸出額の半分近くに達していた。しかし森広蔵といえども、鈴木商店を切り捨てなければならない立場になり、三月二十六日に台湾銀行から新規貸出の停止を通告された鈴木商店は、それから十日後に借金に追いつめられたまま最後の坂を転げ落ち、そのため、続いて台湾銀行が窮地に陥り、休業に追い込まれたのである。

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 「持丸長者国家狂乱篇」P311



  

国家狂乱篇36

 関東大震災、この大地震は日本国経済にとって打撃になった。そのために、地震によって手形などの債務履行に支障が出ると判断した政府・日銀は井上準之助蔵相のもと返済期限の近い手形を「震災手形」と認定し支払猶予期間をもうけた。しかし日々銀行に持ち込まれる手形は増加していき、銀行は不良債権を大量に抱える事態となった。

  そこで、日銀はこの手形の肩代わりをし今で言う不良債権処理を進めようとしたのであるが、あらかじめ決済見込みのない手形などもこれ幸いに火事場泥棒で大量にもちこまれ、決済見込みの無い手形残高が積みあがってしまった。やがて支払猶予は再三にわたり期限延長されていき、その最終期限が震災四年後の昭和二年九月末日とされた。

  すでに大正帝は震災時には御静養、皇太子裕仁摂政が執務に当たっていた。大正帝は世俗においては様々な話が流布されているが、私はその内容についてあまり当てにならないと思っている。
というのはこの時期においては、維新から五十年がすぎ、日本が世界の一等国であると教えられた維新前の世界を知らない貪欲な若者達が権力闘争に励み始めており、宮中某重大事件での山県の失脚等を考えた上においても様々な可能性が排除できないからである。

話をもどそう。

 「引用開始」

  昭和二年(一九二七年)1月、若槻内閣は政府補償によって震災手形の整理をすすめることとし、そのための損失補償法案を議会に提出したが、野党は銀行の不良債権の実態を明らかにせよと改めて、手形の整理が進まなかった。そうして震災手形問題を審議中の三月十四日に、大蔵大臣の片岡直温が突然、「東京渡辺銀行は破綻した」と発言したため、預金者が銀行に殺到して取り付け騒ぎとなり、渡辺銀行とその姉妹銀行あかぢ貯蓄銀行が翌十五日に臨時休業に追い込まれた。実は、渡辺銀行はまだ破綻せず、何とか決済にこぎつけていたのだが、この歴史上有名な失言によって、本当の破綻に追い込まれてしまったのである。これが失言恐慌・昭和二年恐慌とよばれる大恐慌の始まりであった。

「持丸長者国家狂乱篇」P306



 



国家狂乱篇35

 西園寺公望は公家の徳大寺家から養子にはいったが、実弟の徳大寺隆磨は住友家に養子にはいり第十五代目住友吉右衛門となった人物である。その住友家から副支配人の山下芳太郎が首相秘書官についたのも当然である。この西園寺=住友内閣が児玉源太郎を委員長として満州経営委員会を発足させたが、西園寺自らも現地視察をおこなっている。この児玉源太郎を師と仰ぐのが後藤新平である。その後藤が児玉の急死により初代満鉄総裁となるが、後藤は満鉄の鉄道敷設に三井物産ら政商を使い政治利権を拡大していった人物ではなかったかと見ることが出来る。当然ながら長州閥に取り入り後藤自ら政界に進出する。その挙句が国家権力の中枢内務大臣後藤新平~警保局長・後藤文夫~警視総監・湯浅倉平~警視庁官房主事正力松太郎のラインであった。



「引用開始」

当時の責任者だった人物のその後は、警視総監・湯浅倉平が朝鮮総督府・政務総監となり、警保局長・後藤文夫が台湾総督府・総務長官に転身した。後藤文夫が満鉄総裁・中村雄次郎一族であることを考え合わせると、彼ら内務省トップが、朝鮮・台湾・満州の植民地行政官の最高位として、国家ぐるみで組織的に動いたと見える。しかも湯浅倉平を任命したのが後藤新平であった。後藤新平は台湾総督府で初代民政長官をつとめて、日本の植民地支配に抵抗する三万人以上の台湾人を処刑したが、その民政長官を一九一九年に改称したのが、後藤文夫の就任した総務長官ポストであり、後藤新平は初代満鉄総裁でもあった。大震災後、全国各地で収容された朝鮮人たちは二万三七〇〇人にも達し、その一部は民間人に引き渡されて殺害された。

  全国の人が、震災の被害者を救おうと救援物資を送り、商人たちでさえ思惑買いによる投機を控えて物価の高騰をおさえようとしているなかで、一体、なぜ、この理を失う虐殺が起こったか。経済不況が続き、国民から追いつめられた政府か内務省が、日本の貧困層の不満と怒りを朝鮮人と中国人に向けさせる機会としてとらえたのが、関東大震災ではなかったか。翌年に後藤新平が正力松太郎に読売新聞買収のための大金を与えたのは、なぜであろう。そうした中で、後藤新平は、帝都復興院総裁を兼務し、後年に「震災から東京を復興した偉人」とする伝記が流布する。

「持丸長者国家狂乱篇」P294-295



 

国家狂乱篇34

 1923年9月1日マグニチュード7.9、死者行方不明者14万2807人の関東大震災がおこる。こなと昭和二年恐慌→財閥の肥大化→1931年のドル買い事件(昭和六年)・満州事変と続く。
 さてここで初代満鉄総裁・後藤新平~特高警察を主導する警視庁官房主事正力松太郎のラインが登場するが、正力といえば読売巨人軍のオーナー位しか頭に無かった私には、この人物の過去を見て驚いた。読売新聞・・・・嘗ては強引な勧誘で有名、私も学生時代チンピラまがいの拡張員に脅された経験があることからいい印象は無かったが。
 
 思い切って書こうとおもう。後藤は正力に読売新聞買収のため大金を準備し、読売新聞を買収した正力はやがて当時唯一のメディアである新聞を支配、つまりは報道内容を支配し真実の隠蔽、言論統制へとリードする一翼を担っていたのではなかったのか。


「引用開始」

  この時の政府は、地震発生の八日前に、山県有朋一族の加藤友三郎首相が現職で死去したため、代って外務大臣内田康哉(やすや、ともよむ)が臨時首相をつとめていた。内田は満鉄総裁を務めたあと、外務大臣として、「挙国一致、国を焦土にしてもこの主張を徹すことにおいては一歩も譲らない」と焦土演説をして、日本が満州国を傀儡国家とし、満州国の承認を推進する人物である。熊本藩の蘭学者・内田玄真の息子だったが、持丸長者奈良県第一位の林業支配者・土倉庄三郎の女婿であり、また横浜正金銀行頭取として渋沢・安田・大倉・古河とならぶ「明治五人男」と称された長者の中の長者・原六郎の義弟にもあたっていた。

  大震災の翌日、内田康哉は臨時首相を退き、薩摩藩・山本権兵衛内閣が発足した。権兵衛の娘は、一人が”維新の三傑”西郷隆盛の甥と結婚して古河財閥に連なり、もう一人が総理大臣・松方正義の息子と結婚していた。松方正義は明治の財政を担って財閥を肥やし、自らも私服を肥やして全国第八位の持丸長者となり、東京で第十七位の大地主であった。この震災のなかで治安を担当する最も重要な内務大臣には後藤新平が就任した。九月一日の夜から、東京では「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「暴動を起こして放火している」といった流言蜚語を警察が広めたため、恐怖に憑かれた日本人の民衆が朝鮮人・中国人に襲いかかって虐殺し、その虐殺に軍隊・警察・憲兵が加担するなか、六〇〇〇人以上が殺されていった。

 これら暴挙を指揮したり黙認したのは内務省と、憲兵を管轄した陸軍であった。なかでも特高警察を主導する警視庁官房主事だった正力松太郎は、「朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから、それをあちこちに触れまわってくれ」と流言を広めてまわった。

「持丸長者国家狂乱篇」P293-294
正力松太郎(昭和14年)
正力松太郎(昭和14年)
 


 
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Author:cbu66810
昭和が終わって二十年、そろそろあの六十数年を最初から最後まで総括し新しい時代に向けて一歩をふみだす時に来ています。

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