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国家狂乱篇 9

日本工業倶楽部が結成された1917年と長者番付が発表された1926年から1933年のあいだに、経済界の力関係と、資産の持つ社会的影響力のバランスに、大きな変化があったことがわかる。
 何が起こったのであろうか。

 都市生活者と工場労働者、とりわけ女工と呼ばれた女子労働者に、すざまじい貧困がひろがり、工業倶楽部結成の翌年、1918年に国民的怒りが爆発し、全国的な米騒動が勃発したのである。地球全体も同じ問題に巻き込まれていた。米騒動から4年後の1923年8月には、第一次世界大戦の賠償金支払いのためドイツ全土でマルクの崩壊がはじまり、十月二十八日、イタリアでファシスト党のムッソリーニがローマに進軍して首相の座に就いた。この時代、日本で大衆生活の苦難に拍車をかけたのが、翌1923年9月1日に起こった関東大震災であった。その二ヶ月後の十一月八日、ドイツでは、ヒットラー、ゲーリング、ルーデンドルフ将軍によるミュンヘン一揆が起こり、ナチス親衛隊SSが同じ年に創設された。その果てに、日本では1927年に昭和恐慌が発生し、アメリカでは1929年十月二十四日に「暗黒の木曜日」と呼ばれるウォール街の大暴落が火をつけて、世界大恐慌に突入していったのである。

 この大恐慌時代のなか、これまで町や村の豊かな文化を築き、日本を活気づかせてきた町の商人が力を失い、逆にそれまで長者ではなかった工業グループが一大勢力を形成した。つまり1917年の日本工業倶楽部の創立メンバーのあいだにも、生き残る者と蹴落とされる者の違い出た。それは冨の大きさによる差ではなく、社会的な権力による差であった。かつての大商人たちは、相変わらず試算を保ち続けたが、ほとんど発言力を失い、代って、冨のない軍人と、そこに利権を求めて群がる軍需産業が社会の頂点に立ち、そこから日本が、全体主義に向かっていった。これら一切が、それぞれの人生を歩んでいた人間の感情のかたまりとなって、世界的な侵略戦争の複線となったことは間違いない。その真っ只中につくられた長者番付である。
「持丸長者国家狂乱篇」P26-27





 関東大震災で首都圏が大打撃を受けたのが大正12年であった。M7.9、大火災を伴い死者・行方不明14万人、家屋損壊57万戸にも上った。朝鮮人暴動の流言が広まり、朝鮮人・中国人の殺害が頻発、戒厳令がだされた。9・16アナーキスト大杉栄・伊藤野枝・子供(2人の子でなく預かっていた米国籍の少年)が憲兵大尉の甘粕正彦に殺害されたとする甘粕事件が起こる。この事件の真相は諸説あるのですが、甘粕氏はその後満州へ渡り諜報活動をはじめたところからすれば陸軍または某所内で何らかの謀略が動いていたと考えるのが妥当か。この年に北一輝が「日本改造法案大綱」発刊している。昭和まであと三年ですが大衆社会は相当程度疲弊していたことが伺える。
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昭和が終わって二十年、そろそろあの六十数年を最初から最後まで総括し新しい時代に向けて一歩をふみだす時に来ています。

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