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国家狂乱篇35

 西園寺公望は公家の徳大寺家から養子にはいったが、実弟の徳大寺隆磨は住友家に養子にはいり第十五代目住友吉右衛門となった人物である。その住友家から副支配人の山下芳太郎が首相秘書官についたのも当然である。この西園寺=住友内閣が児玉源太郎を委員長として満州経営委員会を発足させたが、西園寺自らも現地視察をおこなっている。この児玉源太郎を師と仰ぐのが後藤新平である。その後藤が児玉の急死により初代満鉄総裁となるが、後藤は満鉄の鉄道敷設に三井物産ら政商を使い政治利権を拡大していった人物ではなかったかと見ることが出来る。当然ながら長州閥に取り入り後藤自ら政界に進出する。その挙句が国家権力の中枢内務大臣後藤新平~警保局長・後藤文夫~警視総監・湯浅倉平~警視庁官房主事正力松太郎のラインであった。



「引用開始」

当時の責任者だった人物のその後は、警視総監・湯浅倉平が朝鮮総督府・政務総監となり、警保局長・後藤文夫が台湾総督府・総務長官に転身した。後藤文夫が満鉄総裁・中村雄次郎一族であることを考え合わせると、彼ら内務省トップが、朝鮮・台湾・満州の植民地行政官の最高位として、国家ぐるみで組織的に動いたと見える。しかも湯浅倉平を任命したのが後藤新平であった。後藤新平は台湾総督府で初代民政長官をつとめて、日本の植民地支配に抵抗する三万人以上の台湾人を処刑したが、その民政長官を一九一九年に改称したのが、後藤文夫の就任した総務長官ポストであり、後藤新平は初代満鉄総裁でもあった。大震災後、全国各地で収容された朝鮮人たちは二万三七〇〇人にも達し、その一部は民間人に引き渡されて殺害された。

  全国の人が、震災の被害者を救おうと救援物資を送り、商人たちでさえ思惑買いによる投機を控えて物価の高騰をおさえようとしているなかで、一体、なぜ、この理を失う虐殺が起こったか。経済不況が続き、国民から追いつめられた政府か内務省が、日本の貧困層の不満と怒りを朝鮮人と中国人に向けさせる機会としてとらえたのが、関東大震災ではなかったか。翌年に後藤新平が正力松太郎に読売新聞買収のための大金を与えたのは、なぜであろう。そうした中で、後藤新平は、帝都復興院総裁を兼務し、後年に「震災から東京を復興した偉人」とする伝記が流布する。

「持丸長者国家狂乱篇」P294-295



 

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昭和が終わって二十年、そろそろあの六十数年を最初から最後まで総括し新しい時代に向けて一歩をふみだす時に来ています。

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