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国家狂乱篇33

 軍事支出が最大規模になった一九二〇年(大正九年)、三月に東西の株式相場が暴落して戦後恐慌が始まった。米価が暴騰し、株価の暴落と共に、成金が急速に没落していった。この時代の国民の苦境については、第一話の幕末・維新篇(三五四頁~)の米騒動とその時代の米価グラフを見ていただきたい。

 手を結ばなければ生きてゆけないとの自覚から、労働者達が五月二日にわが国最初のメーデーを東京上野公園で開催し、一万人を超える群集が「聞け、万国の労働者」を歌い、山県有朋内閣が制定した集会の取締を規定した治安維持法の廃止を叫び、失業の防止と最低賃金法を政府に要求した。翌一九二一年には不況がさらに深刻化して、二月から十月にかけて、全国に労働争議が吹き荒れた。北海道蜂須賀農場、汽車製造、足尾銅山、大阪電灯、藤永田造船所、住友電線、住友鋳鋼、住友伸銅所、三菱内燃機神戸工場へと広がり、団体交渉権を要求する争議が阪神地方に全体に続発した。特に七月、神戸川崎造船所、三菱造船所、神戸製鋼所、ダンロップ、台湾製糖に争議が拡大すると、三菱造船所では三万五〇〇〇人の労働者がストライキ四十五日の大争議に立ち上がり、姫路師団の軍隊が出動する戦前最大の争議となった。このあとも、川崎造船所、横浜船渠、麻の造船所、石川島造船所へとストライキと葬儀が続いた。
 
 この年の労働組合参加者は一〇万三四四二人に達し、ストライキに五万八二二五人が参加した。

 この一九二一年九月二十六日、財閥当主の安田善次郎が大磯の別邸で凶漢・朝日平吾に暗殺され、十一月四日には東京駅で原敬首相が中岡艮一という青年に短刀で刺されて暗殺された。殺伐とした暗殺時代が到来したのだ。

「持丸長者国家狂乱篇」P288


 大正デモクラシーと聞くと何か華やかな時代なのかなという印象もありますが、時代は急激に動いていたようである。特にロシア帝国が崩壊しスターリンによる共産国家が誕生したことが東清鉄道を南北で分割統治していた日本に、北支那からシベリアへの支配権を窺わせる動きになり、元もと政治的要素の強い満鉄もさらに政争の具とされていき政党が変わるたび満鉄理事も変わるという猫の目人事になっていた。さらに国内でも軍需景気から小作農家の次男、三男が造船会社で軍艦製造に出稼ぎに出ており、この戦後恐慌で軍備縮小に反対し雇用を守ろうという動きと、打倒資本家という共産運動の二枚刃となって危険な空気を醸成していったように推察される。また陸海軍省にとっては予算獲得、省益確保の絶好の機会となっていたことも想像され、陸軍省においては明治以来のロシア南下からシナ国支配へ備える軍備の拡張・人員増強、海軍省においては仮想的国アメリカに対抗する為軍艦、水兵の増強というような論法がまかりとおる。
  現在においても高速道路を見れば明白であろう、無駄な道路は造らないといっても結局は景気が悪くなれば、橋、トンネル、高架が景気対策といって復活する。ダム、河川護岸工事、農道整備が復活する。そして政治家と結びついている資本家に金が転がり、労働者はその僅か数%を皆で奪い合う。話を戻そう。

 暗殺された原敬は平民宰相と教えられるが、出身は士族であり平民ではない。実際のところ彼は民衆よりも資本家を代表する政治家であった。詳細は可能であればまたの機会に記すこととする。



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昭和が終わって二十年、そろそろあの六十数年を最初から最後まで総括し新しい時代に向けて一歩をふみだす時に来ています。

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