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国家狂乱篇17

樺太工業と王子・富士製紙は業界の覇権を争っていた・・
しかし興銀総裁結城豊太郎と三井大番頭池田成彬の介入によって合併する。

 それから七年後の1940年1月16日、王子製紙社長・会長として業界に君臨してきた藤原銀次郎が、米内光政内閣の商工大臣に就任して商業界・工業界を主導する権力を握ると、五月から新聞・雑誌などへの洋紙の割り当てを内閣の直轄とした。こうして並み居る新聞社は、次第に欠乏する用紙の統制という足かせをはめられ、事実上、政府の命令を聞かなければ新聞を発行できない立場に追い込まれ、軍部の強力な道具と化していった。

これが、どれほど重大な出来事であったかを、現代人は想像しなければならない。軍人が暴走し様という時に、「それは間違っている」とこの世の真理を主張する人間がいれば、事実は、数々の手段によって広く伝わる。そしてもし、まことに、パスカルが語ったごとく、たとえ人間が自然界で最も弱い生き物であっても、考える葦であるなら、悪事を制止する本能的な動きがでる。しかしその考える元を断たれれば、どうなるか。目の前の日本政府を見ればよい。戦後に培った「人間の発言の自由」を封じ込めようとする方を、教育基本法の改悪、共謀罪の成立へと、次々と推し進めてきた。しかも用紙を統制されていないはずの新聞界が、この堕落腐敗した状況を阻止することもせず、平然と、まったく座視しているとしか見えない。新聞界・報道界が自ら棺桶に足を突っこんでいることに気づかないのは不思議だ。その最も根源的な道具を悪用することを具体化したのが、藤原銀次郎であった。

  藤原銀次郎はその後、一九四三年十一月から翌年七月まで東条英機内閣の国務大臣をつとめ、東条が退陣に追い込まれた後も、引き続いて小磯国昭内閣の軍需大臣をつとめた。一九三八年~一九四〇年に七三九紙あった日刊紙は、一九四一年には「一県一紙」を基本とする方針に基づいて五十四紙にまで減らされるなか、十二月八日の真珠湾攻撃に突入した。整理された悪徳不良紙が、日本の良心だったわけである。~(中略)~

 ここでは、まだ戦争との深い関係にはふれない。しかし、興銀総裁・結城豊太郎と、三井大番頭・池田成彬が登場し、二人の連携によって藤原銀次郎が最後の勝利を得たことを、読者は銘記されたい。「持丸長者国家狂乱篇」P79~80

 








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昭和が終わって二十年、そろそろあの六十数年を最初から最後まで総括し新しい時代に向けて一歩をふみだす時に来ています。

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