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国家狂乱篇21

   実はこの戦い、仕掛けたのは参議(閣僚)の大隈重信であり、自由民権派の「東京横浜毎日新聞」と「郵便報知新聞」が大隈支援にまわり、福沢諭吉の「時事新報」が手を組んでいた。そこに、北海道の運輸と貿易に進出する岩崎の三菱が資金を出していたのだ。そこで、「三人が政府転覆を謀っている」というデマを流して、世論鎮圧を目論んだ黒田清隆だったが、効果はなかった。大隈・福沢・岩崎が「国会を開設せよ」と自由民権の思想を掲げて提携したことは確かである。時の政府は、頂上の大臣三人が三条実美・有栖川宮熾仁・岩倉具視の公家なので、薩摩・長州の言いなりであった。参議は薩摩藩が六人、長州藩が四人、合わせて十人の薩長藩閥が閣僚ポストを占め、土佐藩と佐賀藩合わせて四人は、大隈を除いて薩長に従う者ばかり。政府側は、政治的に処理しようと画策した。

  結末を記そう。これら閣僚にとっては、要求に屈してすぐに国会を開設すれば、権力を失うと分かっているので、十分な歳月を費やして、その下準備をしておかなければならない。そこで陰謀家の参議・伊藤博文が、「国会開設の期日を決定しなければ、怒れる人心を収めることはできない。もはや、ことは緊急を要するので、明治二十三年(1890年)に決めるのがよろしいでしょう」と右大臣・岩倉具視に悪知恵を進言した。実に九年後という遠い先を国会開設とする案を出したのが十月八日であった。そうして三日後の十一日日に、北海道御幸を終えた天皇を加えた御前会議で、その通り、明治二十三年に国会を開設して、悪評の開拓使官有物払下げを中止する、ついでに大隈重信を参議から罷免する、と決定したのである。これが明治十四年の政変であった。政変と呼ばれたのは、大隈罷免に激怒して、逓信総監・前島密、農務商卿・河野敏鎌のはか、犬養毅、尾崎行雄、中上川彦次郎、矢野文雄(矢野龍溪)、小野梓、牛場卓蔵、牟田口元学、小松原英太郎、中野武営、島田三郎、田中耕造、森下岩楠ら、薩長藩閥に反対する錚々たる人士が、続々と政府要職を辞任して野に下ったからである。

 この両陣営の闘争を伝えたニュースが国民を奮い立たせた。これこそ、大川平三郎の製紙業が生んだ、新聞文化の一大成果であった。かくて、新開地・北海道の利権争いから、明治二十三年(1890年)に日本に国会(帝国議会)が誕生することになったのである。
「持丸長者国家狂乱篇」P118-119







  そして4年後初代北海道長官の土佐の岩村通俊が就任し、有力資産家に官営企業と広大な土地を払い下げることを認め、明治十四年に払下げ事件で問題となった牧場や工場が、次々大資本家に優遇で払い下げられていった。
 その最大は炭鉱と鉄道であった。










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昭和が終わって二十年、そろそろあの六十数年を最初から最後まで総括し新しい時代に向けて一歩をふみだす時に来ています。

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