復活へむけて

  先般より、多忙の為全ての活動を現状維持に振り向けて更新
作業を止めました。また関連サイトへのアクセスについても自重し
情報をあえて取り入れませんでした。

 その後の状況ですが、新型に家族が感染(唯一私のみ未感染)し
その看病の傍ら、人の募集→面接→選考→稟議→承認→契約書作成
まで、かなり精神的にも肉体的にも厳しい期間をこなし、なんとか
11月1日より新規人材を確保できたのですこしづつ状況が好転し始めています。

 とはいっても、一ヶ月以上連続出勤中で休みも取れない状況です。
今後仕事の能率を飛躍的に向上させるしか方法はありませんが
それが達成されればもとの状況にもどります。

出来るだけ早く好転させるべくがんばっています。

番外編

  この景気後退によりまして、雇用情勢の悪化は止まるところを知らず、我が身におきましても人員削減の波をもろにうけており、多忙を極め、遺憾ながら違法な無賃金労働、過重労働に加担せざるをえない状況にあり、記事更新もままならない状況にあります。

  しかしながら今、補給線を断ち切り独立隊として篭城、蛸壺線をする状況かといえばそれは無謀な選択であり、到底できかねるところであります。従いまして、更新頻度は大幅に落ちますが、できる限りの更新につとめ、拠点維持とします。
  
                            cbu66810拝

国家狂乱篇43

 おそらくは、もはや誰の目にも戦争は既定路線であることはおぼろげながらもみえていたはずである。庶民の間にもひろまっていたはずである。日露戦争後は「日米もし戦わば」などといった話が広まっていて来日していた米国人を驚かせた、むろんその、世界に対する無知に対してである。一等国である日本が何故、神国日本が・・己の悲惨な現状をそこへ投影させるしか道はなかったのではないか。
  やがて日本人特有の分かっていても何も言わないという和の精神が悪い方向へと作用していったのであり、時候のあいさつも「まあ、しかし日本は神国ですからなぁ」「そうですな」といったようにひたすら事実から目をそらしていったのであるまいか。そうであれば個人は嫌でも、共同体としてあるひとつの理想目標ー大東亜共栄圏へと進むしかなかった。例えるならば誰もがこの売り上げ目標が達成不可能と分かっていても、異を唱えられない、唱えれば即後ろ向きとして村八分にされるという、知性、科学のない日本企業によくある極度の精神主義に傾注するしか方法がない状態に国全体が陥っていたのである。悲惨であるとしかいいようがない。無論幹部らは別であり、彼らは美味しい昼食、晩餐をいただきながら己の私腹を肥やす目の前のことにしか興味はない、一部の者を除いては。
  




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  DNAや遺伝子が何かを動かすわけではない。脳外科医が脳の構造を解明すれば、手術には役立っても、そのようなもので、人間の知性は一歩も進歩しない。脳外科が発達すると共に、日本人のナショナリズムが、ますます戦時中とよく似てきた現実をみればよい。日本を誤った方向に動かしたのは、明治維新以来の軍事支配思想である。傲慢不遜な利権に目がくらんだ長州軍閥・薩摩軍閥は、きわめて婚姻関係の強いかたまりであるから、山口県と鹿児島県のなかで、全県を代表するものではなく、権力を握ったひと握りの集団であった。その人間たちにかしづき、抗うことも知らずに動かされた国民全体の意識が問題である。
 日本の寓話として美麗に創作された『古事記』『日本書紀』の神話は、興味深い内容である。だがそれを権力にために悪用し、天皇は神であるという思想をふりまいた、狂信的な維新の志士と国学者たちの思想の浅さは、驚くほど狭量であった。もともと仏教を国教としたのが天皇家で、奈良の大仏を建立したのが聖武天皇であることも知らないのか、神道のほかには目もくれず、天皇神権の信仰に取り憑かれた若き軍人たちが、次々と暗殺とテロとクーデターに走って、日本の方向を大きく切り換えた。二・二六事件で処刑され、有罪判決を受けた軍人たちが書き残したものには、哀しくも、その古代天皇由来の南北朝伝説に対する真剣な情が縷々記されている。
  戦後になって、皇国青年軍人だった者たちが、その南北朝伝説の系譜がまるで事実と正反対であることを知って衝撃を受け、敗戦にうろたえながら、戦友たちがそのあらぬ妄想のために特攻隊で自殺しなければならなかったことを、どれだけ痛く悔いたかは述べるまでもない。霊魂を信じない人間でも、先に世を去った人の霊や魂を、ふと感じることはある。不信仰な人間でも、路傍のお地蔵様には礼を持って接するものだ。しかしそれと、妄想を信じる事は別である。妄想はイワシの頭と同じ『古事記』と『日本書紀』を考古学的な事実だと信じ、主張するのも勝手だが、己の妄想を法によって事実と決めつけ、他人に強要する新興宗教が、国家の国法としてまかり通れば国は破滅する。妄想のために死ねと、国家の手で皇国史観が若者の頭にたたきこまれ、日本の経済がひっくりかえされたことは、特筆すべき重大深刻な事実である。この軍人たちの一生をそこに導いた人間たちは、多くを問われるべきである。
  暗殺者たちにやすやすと暗殺の口実を与え、軍人を野放しにして植民地支配の支配力を与えた財閥・華族、大蔵大臣・日銀総裁・大銀行・大企業・官僚の幹部たちの考えの未熟さと、世界を見る目の曇りは、当時、日本の植民地進出を煽り続け、軍国主義を礼賛した新聞界ぐるみの無知と共に、責任を問われるのに充分であろう。なぜなら、右のように、すでに日本全体に筆舌につくしがたい貧困が蔓延し、植民地では、土地と生活・商売を奪われて追いつめられた人びとによって、数限りない反日・抗日運動が激化していたからである。それに気づいた人間が誰一人いなかったなら「私は知らなかった」と釈明もできよう。だが史実は、そうではない。数々の報告が山のように出され、その事実を伝えていた。気づいた者のなかには、河上肇がいた。吉野作造がいた。星野芳樹がいた。大河内信威がいた。星野芳樹は共産主義の欠陥にも気づいていた。いま記したのはごく一部の先覚者であり、見識ある者が大量に政治犯として投獄されていた。


「持丸長者国家狂乱篇」P375-377


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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

国家狂乱 番外編

 先日TBSでうじきつよしさんと御父上がかつての戦場をたびするという番組を放送していた。うじき氏の御父上は元陸軍大尉でベトナムで戦車部隊を指揮し、そこで捕虜となったということである。B級戦犯で終身労働の刑が出たが生き延び、帰還された。
 番組ではうじき氏が「戦争は何があっても駄目だ」「あなたは人を殺してどうおもうのか」と連呼したのに対し、ディレクターが最後家族を守るためなら戦争賛成を表明するという、いままでのTBSらしからぬ内容になっていました。いや普通のマスコミ人が増えてきたというべきか。

 我が国では8/15に戦争終結の玉音放送があったことから、この日を大東亜戦争終戦の日としている(実際にポツダム宣言を受諾したのはもう半月ほど先であった)。本日はこの終戦の日といいうことで亡き祖父への様々について語ろうとおもう。勿論あの戦争を体験している。

 祖父は1913-14年頃生まれている。大正の生まれである。無論ここにでてくる長者には足下にも及ばぬであろうが、神戸の商家で相当の金持ちであったと聞いている。小学校、中学校、高校と進み、京都帝国大学医学部へ行かれたと聞いている。おそらく1935年前後のことであろうか。日本の状況はすでに対支那戦争、満州国、日独伊三国同盟などが叫ばれていたころではなかろうかとおもう。おもうというのは祖父は過去についてはほとんど話さないし、私も年齢が幼く聞く事が難しかったのだ。祖父は戦争は駄目だということは言っていたが、具体的な事は話さなかった。しかし、亡くなった今ある一つの仮説が私の頭の中にある。

 京都帝国大学医学部へ入学した祖父、しかしながらそこを中退した。周囲は血を見るのが嫌いで性格的に弱いから駄目だったと祖母も含め評していたし、本人も否定しなかった。だが、私の推測はちがう。祖父は人間として耐えられないある事実を知ってしまったのではなかろうか。後の731部隊へと発展した人体実験である。その事実に衝撃を受けた祖父は、人間としての一線を超えたくないとの強い思いから中退したと考えてみると辻褄が合う。
 死の2-3年前から「自分は罪深い人間である」と周囲に言っていたそうである。クリスチャンであったため「原罪」を悔い改めていると周囲は思っているようだが、私は青年時代のことを言っているように聞こえる。

  そして医学部を中退した祖父は農学部へ編入し農学博士となった。結婚もした。そして
農業指導者として、当時支那政府の首都である南京へと渡る。ここで私の母親が生まれたのである。周囲には常に3-4人のお手伝いがいたそうで、母はよく遊んでもらったそうである、クーニャンと呼んでいた。

  だが、敗戦が避けられない1945年初春、ついに祖父に召集令状が出る。家族はさきに日本へと帰る事になり軍事輸送船に乗る事になったが、土壇場で乗せてもらえなかったそうである。やむなくそのあとの商船にのることになったそうであるが、母たちが乗るはずだった輸送船は潜水艦の魚雷で沈んだそうである。そして母らを乗せた商船が奇跡的に無事に祖国へ到着できたのである。

  祖父は陸軍2等兵として、30-40kgの装備を背負い、ひたすら北へ行軍したということである。対ソ戦に備えてのことだろうとおもうが、家族の写真1枚だけを励みにじっと耐えたとのことである。だが戦う事無く終戦を迎えたそうである。

 戦後は引き揚げ後バラックからの生活で貧しかったそうであるが、祖父は常に無口であまり何も語らなかったそうである。私も温厚なイメージしかないが、何故そうなったのかを考えていくと、あの時しか考えられない。見てはいけないものを見たのか、聞いてしまったのだろう。それが人生を変えた、そう思っている。尚、終戦で生き残ったのは兄弟で祖父だけであり、子供は男子に恵まれなかったためこの家は途絶えることになったが、祖父はそれで良しとしている。

  うじきさんの父親もディレクターに戦争のことは誰にも話したくないといったそうである。「息子に聞かれる、だから話しているんだ」と言ったそうである。その父を犯罪者のごとく責め立てるうじき氏に、私はある種の嫌悪感を感じてしまった。

                           平成21年8月15日
                            cbu66810拝


 

国家狂乱篇42

 血盟団事件の後5.15事件、そして2.26事件がおこる。これはみなさん嫌でも暗記させられた部分であろうと思う。さて彼らは2.26のクーデター事件が成功していたらどういった展開を考えていたのか。この時点で大元帥は裕仁昭和天皇である。彼は4人兄弟であった。あとの3人は皆陸軍士官学校を出ている。つまり陸軍の青年将校らとは同期もしくは非常に近い存在にあった。このあたりから見えてくるものがあろうかと思う。想像を巡らせていただきたい。ちなみに事件のとき第一方面隊は秩父宮師団長であり、昭和天皇にすぐ戻る旨のお伺いをしたところその場にて待機せよとの命令を受け上京は出来なかったそうである。





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団琢磨が殺され、テロにおののいた三井・住友・三菱・安田は、社会に対して何か手を打たなければ危ない事に気づいた。明治時代には、軍閥を生み出す維新の志士と手を組んで資金係となった彼ら財閥だが、不思議な事に、その系譜は商人と実業家の長者ばかりで、軍人がほとんどいなかった。三井家の系図には、古い維新政府の海軍大将をつとめた薩摩の川村純義の孫娘が三井生雄と結婚しているだけで、大正以降の大日本帝国の軍人は一人もいなかった。岩崎家、住友家、安田家にも軍人が一人も見当たらず、古川家が結婚した西郷一族も日清・日露戦争までの軍部主導者である。この時代には、西郷家がみな実業家になっていた。つまり財閥側は、軍隊を育てても、自分たちが金儲けにうつつを抜かしていたあいだ、血気にはやる青年将校たちに首輪をつけていなかったことに気づいたのである。

-中略-


ドル買い事件で矢面に立たされ、さんざんにたたかれた三井は、殺された大番頭の団琢磨が、ただ優秀な技術者という人物ではなかった。私生活において「入ったものはすべて自分の懐に入れる人間」と評されていたのである。団のあとを継いだ池田成彬は、すぐさま改革に着手した。しかし、財団法人・三井恩賞会が設置され、ここを通じて社会事業に巨額の寄付をおこなうように態度を豹変、手遅れにも、武藤山治が息を引き取ってから17日後であった。アメリカでロックフェラーが独占を批判されたとき、突然に全米一の慈善家となって社会を沈黙させた効果に学ぼうとした池田である。三井元之助、三井源右衛門、三井守之助、たち三井家の一族がいっせいに第一線の要職から退き、三井財閥が保有する株式を公開して、社会の公僕たる三井を売り込んだ。しかし世間はそれほど甘くなかった。三井報恩会がぽんと三〇〇〇万円を寄付したとは、それだけの搾取をしていたわけだ、と誰もがますます財閥に対する疑念を深めた。
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\持丸長者国家狂乱篇」P333-334



 
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